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東白川村の「廃仏毀釈」

三、廃仏毀釈の背景

日新館と青山藩政の教育
 苗木藩の教育は、それまで、藩士や藩医の中で文学に秀(ひい)でている人物を選んで行っており、12代友禄(ともよし)の代になって、やっと、有能な漢学者を藩邸に招聘(しょうへい)して講義をさせることにしましたが、隣国の岩村(いわむら)藩などに比べると教育体制はかなり遅れていました。

 明治元年初頭、政情の変革と共に、人材の開発が緊急の課題となり、学校設立の気運が高まったのです。その年8月になって「仮学校所」を設置し、教授世話方として曽我多賀八(祐申(すけのぶ)・勉斎)(平田門人。元治(がんじ)元年元方・目付兼帯、切米(きりまい)10石2人扶持。明治2年学校主事、のち少参事)を任命し、同時に学校世話方として石原謙次郎、岩嶋忠三郎、中島弓三の3人を任命しました。

 明治2年12月5日、青山藩政の政治的基盤ともいうべき「日新館」が落成しました。

 こうして、これまで和漢の歴史を学ぶことを教育方針としてきた苗木藩の教育は、平田派が藩行政の実権を掌握するにしたがって大きく変革することになり、日新館における教育は、国学を学ばせ、本居宣長や平田篤胤などの著書を講義して、国体精神の育成、啓蒙を基本とするようになりました。

 そのころ領内には平田派国学がかなり広まっていましたので、日新館には士族だけでなく、一般の庶民も入学を許されました。

 日新館完成と共に藩庁は祭神を祀ることに決め、館内に新宮を造営して、学神三神(八意思大神(やおおもいのおおかみ)・忌部広成(いんべのひろなり)・菅原道眞(すがわらのみちざね))と国学四大人(荷田春滿・賀茂眞淵・本居宣長・平田篤胤)を祀りました。青山直道が大参事に就任した直後のことです。

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