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東白川村の「廃仏毀釈」

七、嵐のあと

ああ ありがたき産土神
(村雲蔵多『明治三年見聞録』から-大要-)

 いつの日か、菅原知明(すがわらともあき)という神道の講釈師が来て庄屋に泊まり、一晩講釈をしました。その者は、

「私は、生まれた土地の産土神を大切に尊敬しています。毎月朔日(ついたち)、15日、28日には必ずお参りしなければなりませんが、農家ですので白昼お参りする時間がありません。だから朝早く起き、朝食前にお参りすれば差し支えありませんので、そのようにしています。産土神へよくお参りし信心すると、きっと厚き幸(さきわ)えがあるでしょう。こうすれば、神土村の産土神は他のどの村の産土神よりも尊い社で、霊験あらたかであるといって、参詣する人も多くなるでしょう。そのようになれば、村もどことなく福々しくなり、村繁栄の基となります。また、産土神を粗略にし、村の者がお参りもせず、お宮があってないような状態にすれば、その村は産土神の守り給うところもなく、貧しくなり、自然に滅亡するでしょう。」

と話しました。

 今思い出しますと、実にこのことでした。わが村の神田神社の祭りは、今まで村の者でも参詣する人が少なかったのですが、今回、このように(延喜式内神社であり、知事が参詣したこと)尊いお宮であると方々へ聞こえ、近郷はいうに及ばず他国の人まで多くお参りしたということは、昔から聞いたことがありません。実に神国の有難さでこうなったものです。

 思うに、神田神社は霊徳尊くしてその名は四方に隠れなく、日々の参詣が多く、これこそ村繁栄の基でしょう。めでたし、めでたしと私は独り喜ぶのです。

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