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東白川村の「廃仏毀釈」

三、廃仏毀釈の背景

復古国学と復古神道
 廃仏毀釈のそもそもの原因となった思想は、何といっても国学四大人といわれた荷田春滿(かだのあずままろ)、賀茂眞淵(かもまぶち)、本居宣長(もとおりのりなが)、それに平田篤胤(ひらたあつたね)を代表とする復古国学であり、復古神道(しんとう)の精神だということができます。

 国学とは日本古来の思想を求めて古典を研究する学問ですが、国学として形が整ってきたのは、18世紀半ば以降であるといわれます。

 復古神道の祖というべき人は、厳密な意味では賀茂眞淵でしょう。眞淵は元禄(げんろく)10年(1697)遠江国(とおとおみのくに)(静岡県)に生まれ、皇道復古の志を抱き古語や古典の研究が大切であることを説く京都伏見稲荷(ふしみいなり)神社の神官荷田春滿の門人となって古学を学びました。明和(めいわ)6年(1769)に亡くなりましたが、眞淵は「萬葉集」などの古典を研究して、古代人の生活や思想に立ち戻るべきであることを主張しました。また、儒教や仏教を強く排斥し、祝詞(のりと)が古神道の宝庫だといい、古道だけが天地自然の道であると力説しました。

 その眞淵の学統を引いて、あるいは眞淵以上に出たものが本居宣長です。宣長は享保(きょうほう)15年(1730)伊勢国(三重県)に生まれました。

 彼の学者生活を終生支えたのは医業で、生計が成り立たなければ何事も始まらないという決心から医学を修行しました。安永10年、宣長が52歳のときに抱えていた病人の家の数は448軒あったといいます。後年、国学の門人が多くなってからも、講義中、しばしば外診のために中座することがありました。 宣長の国学への執心は、彼が京都での医学の修行中に僧契沖(けいちゅう)(江戸前期の国学者で歌人。漢籍、仏典などに精通し、独創的な古典の研究を行い、国学を大きく展開させた。長歌にすぐれた人)などを通じて育まれていました。

 眞淵を知ることとなってからその志をさらに強固にし、神話の研究には、後世の思想を加えないでそのままを信ずることだと説いて、明和元年(1764)35歳のとき「古事記伝」の執筆に着手し、寛政(かんせい)10年(1798)69歳で48巻の大著を完成するなど多数の古学に関する著作を発表しましたが、享和(きょうわ)元年(1801)に亡くなりました。

 賀茂眞淵から本居宣長へと継承された復古国学は、宣長が亡くなったのち、さらに、その没後の門人の平田篤胤(ひらたあつたね)に至って神道思想が強まり、著しい躍進を遂げました。篤胤は、哲学的、宗教的観念によって、排他的な攘夷(じょうい)思想に結びつく、いわゆる平田学派を形成したのです。

 平田篤胤は、安永(あんえい)5年(1776)出羽国(秋田県)に生まれ、通称を正吉(まさきち)といいました。成長するにしたがって古典、古学に心酔するようになり、神代文字(じんだいもじ)が存在することを主張し、熱烈に神道説を説きました。

 篤胤は眼中人なしという趣のたいへんな自信家でしたが、宣長だけには絶対的な尊敬の念を抱いていました。 篤胤は仏教や儒教を激しく排斥し、それまでの仏教的神道や混淆(こんこう)神道を罵りましたが、気負った説教家として分かりやすく説教し、勉学を求めませんでした。この点が、多数の人々をひきつけ、世の人に与える感銘は大きく、篤胤神道は一世を風靡(ふうび)しました。

 文化5年(1808)、神祇伯白川家から、諸国の神職に古学を教授することを委嘱され、「神字日文伝(かんなひふみのつたへ)」など多くの著書を残し、天保14年(1843)に亡くなりました。

 眞淵、宣長、篤胤にはともに多くの門人がいました。なかでも篤胤の門人は563人、彼が亡くなってからは、1330人を数えました。その大部分は神職、庄屋、町役人、富裕町人などの地方の有力者や指導者でした。これらの人々の支持や働きで、復古神道は全国に普及し、尊皇攘夷運動と相まって幕末の政治に浸透していきました。

 こうして復古国学の思想は、荷田春滿-賀茂眞淵-本居宣長-平田篤胤と受け継がれ、平田派国学の系統を引く者たちは、後に、明治新政府に登用されて復古神道を主張し、祭政一致、神仏分離など新政府の政策に少なからぬ影響を与えたのです。

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