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東白川村の文化財

有形文化財

天正(てんしょう)検地帳

天正検地帳

指定番号 東白川村指定有形文化財第3号
指定年月日 昭和52年(1977)1月18日

所在地 東白川村五加881番地
所有者 纐纈泰郎

形状等
種類・数量 古文書2点
品質・形状 和紙、ひも綴、墨書
年代 天正17年(1589)
 天正検地は、豊臣秀吉が行った検地で太閤検地とも呼ばれる。

 検地とは、田畑の面積や品等、収穫高、その土地の耕作者などを調べる、いわゆる土地調査のことである。

 秀吉は、山崎の合戦で明智光秀を倒した直後の天正10年(1582)7月に山城国(やましろのくに)の検地を行い、それ以後天下の統一を進めるに従い、検地を各地に拡げていった。

 検地奉行には直属の優秀な家臣を充て、厳しい検地条目(別項)を与えた。すなわち、(1)石盛りを「京枡(ます)」に統一する。(2)品等を上、中、下、下々に分け、上田は1石5斗代、上畑は1石2斗代とし、以下それぞれ2斗下がりとする。(3)面積をそれまでの1反360歩を、1反300歩とする。(4)検地役人の賄賂(わいろ)を禁止する。(5)検地費用は原則として自弁とする、などである。

 検地帳(土地台帳)は、田畑を繩打(なわうち)(測量)して等級をつけ、1筆ごとの分米(生産高)と1地1作人の原則のもとに名請(うけ)人(納税責任者)を定め、1村ごとに作った。

 検地は、丈量(じょうりょう)、竿入(さおいれ)、繩打などと呼び、でき上った検地帳は、水帳、竿帳、繩帳などと呼ぶ。検地帳は、3部作られ、1部は宮中へ、1部は秀吉の手元に、他の1部は領主へ与えたといわれる。従って現在村に残る天正検地帳は、正しくは検地帳の写しであろう。

 この検地によって、中世以降の荘園制に完全な終止符が打たれ、大名に対する知行も従来の貫文制から石高制に切り替えられた。世にこれを「天正の石直し」という。

 さて、美濃国の場合、検地役人には、大谷刑部小輔吉継、増田右衛門尉長盛、浅野弾正少弼長政、片桐主膳貞隆、石川備前守光吉、伊藤加賀守秀盛、竹中源助重利らがなり、直接またはその手代の役人によって検地が行われたとされるが、村に現存する2冊の検地帳の表紙に記された山本仁右衛門尉、臼井太郎左衛門尉の2人がだれの手に属した現地指揮者であったかは、つまびらかでない。

 2冊の検地帳は、筆蹟も似通い、記載形式も同じで、帳末には家数帳もあるが、下野村検地帳にはくわ、かミ、かき何本という記載があることが特筆される。

 天正検地帳は、岐阜県内に23冊発見されているという。ほとんどが中西濃方面に集中しているが、このなかに村の2冊が新たに加わることになり、貴重な文化財である。

天正検地帳

◎検地条目
美濃國山かた(県)郡堺目より、常陸(木村重隆)・右衞門尉(増田長盛)檢地之堺目之間、南はなから(長良)の川、北は越前堺まて、檢地御掟条々
1 田畑家屋敷共に五間六十間之定、三百歩ニ繩打可仕事
1 田地、上京升壱石五斗代、中壱石参斗代・下壱石壱斗代ニ可相定、其より下々ハ見斗可申付事
1 畑、上壱石弐斗・中壱石・下八斗ニ可相定、其より下々ハ見斗可申付事
1 給人百姓ニたのまれ、禮錢・禮物一切不可取之、至後日も、被聞召付次第、可被加御成敗事
1 御兵粮被下候上ハ、自賄たるへし、但さうし・ぬか・わらハ百姓ニ乞可申也
  天正17年10月朔日 朱印(秀吉)
片桐主膳正(貞隆)殿
石田 杢頭(重成)殿

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