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東白川村の文化財

有形文化財

蔵多日記(くらたにっき)

蔵多日記

指定番号 東白川村指定有形文化財第5号
指定年月日 平成5年(1993)1月11日

所在地 東白川村神土3029番地の1
所有者 村雲康平

形状等
種類・数量 古文書4点
品質・形状 和紙、紙ひも綴、墨書
年代 文久4年(1864)から
明治4年(1871)まで
 「蔵多日記」は村雲蔵多が綴った文久4年から明治4年までの8年間の記録を総称し、略称したものである。

 執筆者村雲蔵多(太)は、一農民として苗木藩政に陰の協力をしながら、日々起こる事柄を「後世のために書き残す」という明確な意図のもとに、庶民の立場で明治維新を受け止め、吹き荒れた廃仏毀釈の嵐についてもその成り行きを克明に記録した。

 明治維新前後の動乱の世情の中で、東白川村の村人たちが、どのように考え、どのような思いで、日々の生活に対処したかを知る文書は意外に少ない。そういう中でこの文書は、往時の村びとの生活の姿を偲ばせてくれる資料として貴重である。

 なお、執筆の方法は、その文面から、日常的にメモをとり、それをある時期に一括して成文化したものと考えられる。
村雲蔵多
 村雲蔵多は、嘉永2年(1849)正月18日、村雲家4代目として神土村神付に生まれた。幼少のころから勉学にいそしむ努力家で、苦労をして文学を学んだ。敬神の志厚く、根っからの神道家でもあった。

 東白川村に仏教が伝わった時代は詳らかではない。しかし、周辺町村の史料などから平安末期ごろと類推することができる。それから明治初年まで、仏教と神道はさまざまに関わり合いながら東白川の村人の宗教生活に息づいてきた。そして、明治維新を迎え、廃仏毀釈の嵐が吹き荒れることとなるのである。

 慶応4年3月、仏教と神道の習合(しゅうごう)を分離させ、神道を国教の地位に据えることを目途(もくと)とした、いわゆる「神仏判然の御沙汰」が発せられた。動乱の中で、王政復古、復古神道を確立し、祭政一致を目指す平田学が苗木藩に急速に根を張った。

 村雲蔵多は、敬神の志をさらに高め、ついに、明治3年4月、平田学に入門し、その門人となった。

 このことがきっかけとなって神葬改宗の決意を早くから固めることとなった。しかし、家族の同意が得られないため、決意とは別にその時期が遅れたものの、村雲蔵多は、神葬改宗を熱意をもって押し進めた一人であった。

 村雲蔵多は、近隣の人望が厚く、常に率先して行動した。苗木藩庁からの度重なる借金の要請に快く応じたが、時には全体のために積極的に減額の掛け合いをするなど、地域のために尽くす人であった。

 慶応3年までは名を「蔵太」と表記し、その後は「蔵多」としている。別名を桂川庄太郎といい、明治3年4月、柏本村社司安江平正朝(安江民部)から「正道」の名をもらい、「桂川庄太郎正道」と名乗った。その年の10月、苗字(みょうじ)御免となり、姓を「村雲」とした。

蔵多日記(4冊)の形態

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