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東白川村の文化財

史跡

蟠龍寺(ばんりゅうじ)跡

蟠龍寺跡の全景

指定番号 東白川村指定史跡第2号
指定年月日 昭和51年(1976)6月1日

所在地 東白川村五加字酒屋畑1570番1外
所有者 別掲

形状等
現況地目
筆数 8筆
地積 寺跡1,202.6平方メートル
付属建物跡
59.3平方メートル
75.5平方メートル
参道その他
幅 平均3メートル
延長 50メートル
年代 寛文5年(1665)
 五加大沢の主要地方道白川加子母線(県道62号線)から北へ約50メートルの参道を上ったところに青松山蟠龍(ばんりゅう)寺跡は、ある。

 高さ約5メートル、延長約50メートルにわたって大小さまざまな石でがっしり積み上げられた石垣の上の茶畑が寺屋敷跡で、山門に通ずる部分だけが後に耕地として使用するために玉石で積み上げられているのが印象的である。

 蟠龍寺の中興再建は、江戸中期寛文5年(1665)で、そのころの蟠龍寺は、鎌倉幕府が建立した御厩野(みまやの)(現下呂町)の大威徳寺の末寺であった。

石積みの一部

 近世は遠山友政が菩提(ぼだい)寺として苗木(現中津川市苗木)に建てた天龍山雲林寺の末寺で臨済宗妙心寺派に属し、その檀家は、柏本、宮代、大沢、下野、久須見、中屋、須崎の旧七か村に及んだ。

 本尊は、聖観世音菩薩(しょうかんぜおんぼさつ)と伝えられる。

蟠龍寺跡の土地の状況

 蟠龍寺は、中興の祖南隣禅松(延宝6年(1678)没)から12世全理に至るまでおよそ200年の寺歴があるが、これは、近世に入って雲林寺の末寺に属した以後のことでそれ以前については、つまびらかでない。

 明治初年、11世祖恩が没して、12世全理が姫栗長増寺(現恵那市笠置)から移住して間もなく蟠龍寺は廃寺となるが、これには次のようないきさつがある。

 当時、神仏分離令が布告され、仏教排斥の気運がようやく高まった折であった。あるとき、村の若者たちがいたずらに、「穢(けが)れの者これより外に出るべからず」と大書した高札を寺の門前に立てた。全理は勝気な僧だったので、早速「俗人の輩(やから)みだりに聖境へ入るべからず」と逆襲した。このような応酬が村方の反感をつのらせることとなり、ついに彼は寺を去った。藩庁から廃寺帰俗の申し渡しを待たずに蟠龍寺は、事実上終焉(えん)を遂げたのである。

 ちなみに、明治3年9月27日廃寺の届け出のあった苗木領内15か寺の中に蟠龍寺の名前が見られないのは、このためであろう。

参道の石仏

 廃寺以来、名号塔や庚申(こうしん)塔などは、倒されたままになっていたが、大正7年(1918)五加下野鉱山の監督として大阪から赴任していた安川某の発願によって、歴代住職の墓塔とともに建て直された。今、これらの石造物が、ここが寺であった感触をわずかに漂わせている。

蟠龍寺跡平面図

蟠龍寺歴代住職
蟠龍寺歴代住職
中興
開山 南隣禅松 延宝6年(1678)10月12日没
2世 大胸祖満 宝永2年(1705)10月14日没
3世 大秀玄智 正徳2年(1712)6月28日没
4世 黙室禅宜 元文3年(1738)5月17日没
5世 再中興 延享4年(1747)7月5日没
6世 希岳祖廉 宝暦13年(1763)2月24日没
7世 定岳祖禅 天明5年(1785)7月7日没
8世 大方禅珠 文化2年(1805)2月3日没
9世 容道禅興 文化14年(1817)3月25日没
10世 中宝文哲 安政4年(1857)10月8日没
11世 祖恩 明治元年(1868)5月29日没
12世 全理

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