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東白川村の文化財

有形文化財

慶長検地帳

慶長検地帳

指定番号 東白川村指定有形文化財第4号
指定年月日 昭和52年(1977)1月18日

所在地 東白川村五加881番地
所有者 纐纈泰郎

形状等
種類・数量 古文書6点
品質・形状 和紙、ひも綴、墨書
年代 慶長14年(1609)
 徳川家康は、慶長5年(1600)、関ヶ原の戦に大勝すると美濃の諸将をほとんど改易し、美濃国奉行として大久保石見(いわみ)守長安をおいた。長安は、岐阜靱屋町に陣屋を構え、仕置を担当する代官頭として幕領を支配した。

 慶長14年(1609)、美濃国の検地が行われた。これは、慶長6年(1601)から全国的に進められていた検地の一環として行われたもので、天正検地以後徳川幕府の行った最初の検地でもある。これ以後美濃一国の総検地は行われていない。慶長検地は、奉行大久保石見守長安が行ったことから石見検地または石見検ともいう。

 この検地は、大久保石見守長安を総奉行とし、その配下の代官、手代のほか、在地大名の加納城主奥平忠政、岩村城主松平家乗、近隣大名の三河岡崎城主本多家重、同吉田城主松平家清、伊勢桑名城主本多忠勝、忠政父子、近江彦根城主井伊正勝など譜代(ふだい)大名を動員し、それぞれ関係地以外を担当させて実施した。本村関係では、越原、神土、柏本、宮代の各村を担当したのが三河吉田城主松平玄蕃頭家清で、長坂作太夫、が家清の家臣として検地に当たった。なお、下野村については、桑名城主本多中務大輔忠勝の子美濃守忠政が担当し、検地役人には渡部源右衛門が当たった。

 慶長検地では、測量の基準になる1歩(1坪)は、太閤検地の6尺3寸平方から6尺に縮められた。このように、一般に検地実施の目的は、石高打ち出しにあるにもかかわらず、江戸幕府が苗木藩に与えた石高は、太閤検地石高であり、以後慶長検は、内高として年貢賦課の基準となった。

 各検地帳(水帳)は、どれも保存状態がよい。

 宮代村の検地帳の2冊のうち1冊が欠けているが、田畑惣寄は完備しているので欠けた1冊は屋敷帳であろう。

検地帳の1ページ

慶長検地帳の表紙

※クリックで写真を拡大いたします。

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