カテゴリメニューはこちら

東白川村の「廃仏毀釈」

三、廃仏毀釈の背景

平田派国学と苗木藩
 仏教や儒教を排斥し、日本古来の神道に還元させようとする平田派国学はどのようにして苗木藩に導入されたのでしょうか。

 その中心となった人物は、明治2年(1869)10月の藩政大改革によって大参事に任用された青山直道(あおやまなおみち)の父景通(かげみち)でした。景通は文政(ぶんせい)2年(1819)に生まれ、通称稲吉(いなきち)といいました。はじめは切米(きりまい)6石(こく)2人扶持(ぶち)の祐筆(ゆうひつ)として江戸藩邸に出仕し、苗木藩(なえぎはん)11代藩主遠山友寿(とおやまともひさ)の妻栄綱院(えいこういん)に仕えました。

 そのころ、平田篤胤の養子銕胤(かねたね)は、篤胤の後継者として平田派国学を全国に広めていました。

 その学風は「神道はわが国の大道にして、天(あめ)の下治(しろし)め給う道なれば、儒仏とならべいうまでもなく、掛けまくも可畏(かしこ)けれど、上(かみ)は天皇をはじめ奉り、下(しも)は万民に至るまで、儒仏を棄て、ただひたすら神道を尊(たっと)まし奉らん」とし、わが国古道が卓越していることと復古神道の立場を強調し、「政道は、神国の御風儀にて、神慮によって世を治め給い、神祭をもって第一とする」ことを説き、王政復古、復古神道の確立と祭政一致を目指すものでした。

 ちなみに、平田銕胤は、寛政11年(1799)、伊予国(いよのくに)(愛媛県)に生まれ、篤胤が亡くなった後は京都荘厳院(しょうごんいん)に家塾を開き、維新後は、大学大博士、大教正(だいきょうせい)、待講(じこう)などを歴任し、明治13年(1880)81歳で没しました。

 青山景通は、生来、学問に対する造詣が深く、嘉永(かえい)5年(1852)に平田銕胤の門に入りました。以来平田派国学に徹し、銕胤の著書の校正にたずさわり、それに署名するほどの高弟となりました。新政府が神祇官(じんぎかん)を再興する際は、神祇長官白川家の推挙により、慶応(けいおう)4年(1868)5月、徴士(ちょうし)神祇官権(ごん)判事に任命されて新政府の官吏になりました。

 青山直道も、この父の影響によって、慶応元年(1865)9月には平田学に入門して時流に乗り、大参事に任用されてからは、専ら復古神道を基とした祭政一致を政治理念とするようになりました。

 このように、藩政の理念として平田派国学がとり入れられてきますと、当然のことですが藩の新役人には優先的に平田門下に属する者の登用が多くなり、明治2年(1869)の旧藩士の中の平田門人は35人でしたのが、その後、藩知事をはじめ要職にある者が次々に入門し、同4年(1871)の平田門人は領内村役人を含めて56人を数えるに至りました。

 明治2年12月には藩校「日新館」が開校しました。開校直後の同年12月15日、藩知事遠山友禄(ともよし)は大参事以下藩士一同を日新館に集め、学神として祀る国学四大人(荷田春滿(かだのあずままろ)・賀茂眞淵・本居宣長・平田篤胤)の神前で次の四か条からなる誓詞を朗読させ、国学思想の啓蒙と普及を第一とする藩の施政方針を明らかにしました。
開国以来の天恩を仰ぎ、復古維新の盛世を楽しみ、大いに尽忠の志を興起すべし
祭政惟一(ゆいいつ)はわが皇国(みくに)の大道なり、故に天地神祇を敬祀(けいし)して、永久に怠ることなかれ
民は国の至宝なり、惨酷(さんこく)これに臨む事なく、努めて撫恤(ぶじゅつ)を加え、以って好世至仁(しじん)の聖化(せいか)に浴(よく)せしむべし
公平廉直(れんちょく)を挙げ、偏執阿党(へんしつあとう)をしりぞけ、上下一(しょうかいつ)にして教化浴(あまね)く布(し)き、風俗を敦厚(とんこう)、陋習(ろうしゅう)を除去するを専要となすべし
 こうして、敬神復古思想の徹底指導は、士分の子弟に限らず、次第に領内の卒族(そつぞく)、平民に至るまで入門の範囲を広げ、許可するようになりました。領内全域に広がった平田派国学による敬神思想の影響は非常に大きく、時の新政府が打ち出した神仏分離の政策にとどまらないで、廃仏毀釈という思い切った政策へ突入したことは、平田派国学を信奉する人々にとっては当然の帰結でした。

このページをSNSに共有する

ページの先頭に戻る

文字サイズ

色の変更

閉じる