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東白川村の「廃仏毀釈」

三、廃仏毀釈の背景

俗にいう苗木騒動
(村雲蔵多『明治三年見聞録』から-大要-)

 出羽国(でわのくに)秋田の家中に平田篤胤(ひらたあつたね)という人があります。幼少の時から深く学問に意を用いられ、さまざまな学問をされました。

 ちょうど、伊勢国松阪(いせのくにまつさか)に住んで神道(しんとう)を学び、その道を見開き、神代からのことなど詳しく、多くの書籍に著わされたことにより世にかくれない本居宣長(もとおりのりなが)という人があります。

 この人の著書を読んで、36歳になって神道の奥儀(おうぎ)を極められました。

 それからは多くの人に神道の講釈をし、神道の尊い所以を説き、愚人の耳に聞きやすいように書籍を著わして出版されました。神代のことなどは特に詳しく、神の系譜を調べ、神代系図として大きな掛軸とされました。これを掛ける人もあります。

 そういうことから、天下に名が知られるようになり、神祇官伯王(じんぎかんはくおう)の学頭を仰せ付けられてお勤めになりました。

 代々英智の家柄で、養子の銕胤(かねたね)という人、その子息延胤(のぶたね)という人、共に大学大博士平朝臣(たいらのあそん)を賜わる日本無双の学者です。

 日々、皇国の学問を基にして多くの人に教えておられましたが、昨年(明治3年=1869)9月に東京において大学を開校されたところ、諸国から学問に来る人が多くなりました。そのため、全国のどんな辺地までも名が知られるようになり、皇国の学問を志す人々がその門をくぐり、師弟の契約をして神の道を学ぶといいます。

 昨年、当地の神主が上京したとき、この人たちが入門して帰ってきました。そして、そのことを志のある人に語り、入門の望みがあるなら東京まで行かなくても、苗木(なえぎ)に取次所があって取り次ぎができることを話しました。

 柏本(かしもと)村の神主安江民部(やすえみんぶ)という人が神付問田(じんづきといだ)の今井賢三郎(いまいけんざぶろう)氏にすすめたところ、氏は神道の学問を好む人でしたので、直ちに入門願を出されたそうです。

 今井賢三郎氏は私が幼少のころ手習いを教えてもらった先生です。それで私にも、門人になってはどうかといわれました。これには進物や礼金が必要であるし、誓詞という文を書かなければならないので、強いて勧めはしないが、君は日ごろしっかりしているので、今、入門を勧めないで、後から悔やむことがあってはいけないと思ったまで、という親切な話でした。
 私は、やはり神祇の道を重く思う気持ちがありますので喜びました。早速入門したいからよろしくと申し上げました。
 4月12日、柏本村八幡社の神主安江民部公を訪ねました。平田先生へ入門したいのでお取り次ぎ願いたいと申したところ、深く喜ばれ、神の道の尊い所以を種々お話しくださいました。お酒をいただき長居をしてしまいました。

 私はまだ実名を呼ぶことにしておらないので、安江公にお願いしたところ、いい名を選んでやろうということでした。

 また、誓詞の原稿も作っていただくようお願いしました。

 さて、入門に伴い平田先生に贈る進物などは、御肴(おさかな)料として金100疋(ぴき)、扇子(せんす)料として金1朱(しゅ)としました。

(註=明治3年4月、柏本村の社司安江平正朝から贈られた名は「政道」でした。)
平田学へ入門をお願いしたからには、師の著書を読まなくては詮(せん)ないことですが、僻地(へきち)であるため容易にその著書を求めることができません。そこで尾張正名の商人栄左衛門という者を頼んで「伊吹於呂志(いぶきおろし)」という書を求めようとしましたが、名古屋には無く、正名の神主沢木(さわき)方に古本があって、これを持参したので、買うことにしました。

この本は2巻で、代金は2分(ぶ)と300文(もん)でした。
 苗木の御家中に青山稲吉(あおやまいなきち)という人があります。この人は前から江戸で平田先生に従って国学を学ばれ、多数の門人の中でも才智にすぐれて、並ぶ者がないと聞きおよびます。

 こういう世評に違わず、ついに京都へお召しになられ、神祇官(じんぎかん)の内のお役を賜って精勤なさっているそうです。

 子息の佐二郎様は苗木の大参事ですし、また、助松という方は12、3歳と承りますが平田先生の養子になりなさったと聞きます。

 親子とも雄才で、天下にその名を現わし、後世に美名を賑わされることは、まことにわが国の幸せであります。

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