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東白川村の「廃仏毀釈」

二、東白川村の仏教

安泰山常楽寺(あんたいざんじょうらくじ)
 この寺は現在の東白川村役場の位置にありました。神土(かんど)村と越原(おっぱら)村一円を檀徒とし 、臨済宗(りんざいしゅう)妙心寺派(みょうしんじは)に属していました。できた年代は詳(つまび)らかではありませんが、その昔は常楽院といい、飛騨御厩野(ひだみまいの)(下呂(げろ)町御厩野)の大威徳(だいいとく)寺の末寺でした。

 慶長19年(1614)、領主遠山友政(とうやまともまさ)が菩提寺天龍山雲林(うんりん)寺を創建し、その後、領内統治の一環として宗派の統一を図ったとき、改宗してその末寺に加えられ、安泰山常楽寺と称しました。

 歴代住職は、神土平上之段(たいらうえのだん)墓地に並んでいる墓塔群と雲林寺旧蔵の過去帳の調べで、

1世 心叟玉和尚禅師
慶長6年(1601)4月11日亡
2世 了山全和尚禅師
寛永3年(1626)5月21日亡
3世 溪岩源和尚禅師
明暦2年(1658)4月26日亡
4世 銑翁午和尚禅師
延宝3年(1675)正月19日亡
中興
5世 大圭猷和尚禅師
享保7年(1722)4月25日亡
6世 円峰周和尚禅師
宝暦3年(1753)6月18日亡
7世 普翁門和尚禅師
明和5年(1768)7月28日亡
8世 鑒應古和尚禅師
明和8年(1771)8月21日亡
9世 聖外果和尚禅師
享和3年(1803)6月28日亡
10世 鳳宗來和尚禅師
嘉永元年(1848)3月6日亡
11世 自董(後に安江良左衛門と改名)
明治12年(1879)9月6日亡
となっています。

 三世までは大威徳寺の末寺の時代で、雲林寺の末寺としては4世以降となります。

 10世鳳宗來和尚のときの文化元年(1804)3月、火災が発生して本堂をはじめ建物の大半を焼失してしまいました。その時の模様について神土村庄屋留書(とめがき)には次のように記録してあります。

當(とう)村常樂(らく)寺燒失の事

文化元甲子年三月廿六日夜九ッ半頃に風呂場(ふろば)より出火仕り方丈並庫裡(くり)・物置・長屋・隠居屋(いんきょや)共に不残燒失仕候尤本屋・脇(わき)屋共三家残り候

取遺し申す品は印判・御本尊様三尊・十六善神(ぜんじん)圖一幅・大般若經(はんにゃきょう)百巻・半鐘・過去帳・位牌あらまし

右御代官井澤孫兵衛(いざわまごべえ)様 正岳院(しょうがくいん)様御兩所へ届申候

夫より文化五戉辰年四月十一日に御普請御届け仕候て 同月十六日に入仏供養相勤め申し候 御代官小池小左衛門様

 明治初年、苗木藩は廃仏毀釈を断行し、領内の各寺院に対して厳しく廃寺帰俗を申し渡しました。常楽寺もその例にもれませんでした。11世自董はやむを得ず還俗して安江良左衛門正常と名を改めました。ときに明治3年9月、自董が60歳のときのことでした。

 廃寺となった当時の常楽寺は、本堂5間×7間、庫裡(くり)5間×6間、それに2間4方の地蔵堂と鐘楼を配し、鎮守(ちんじゅ)は小祠で天神を祀(まつ)り、寺領は田4反歩、畑2反歩ほどを有していました。

 廃寺後の本堂は小学校の校舎として転用され、明治24年(1891)まで存続しました。また、庫裡は近在の者に百五十両で売り渡され、製糸工場として移転改築されたといいます。位牌類は他の仏具とともに寺の境内で焼き捨てられたり、他領へ売り払われたりしました。寺の象徴であった梵鐘(ぼんしょう)が鐘楼とともに百両余りで尾張国前飛保(おわりのくにまえひぼ)村無量山深妙寺(むりょうざんしんみょうじ)へ売られて行ったのも、この年の秋のことでした。

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