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東白川村の「廃仏毀釈」

五、廃寺廃仏の断行

仏道から神道へ
(村雲蔵多『明治三年見聞録』から-大要-)

 王政復古、御一新につき、仏道は国の費えだから廃止して神代のように神葬祭にし、親が死んでも人手に渡さないで、丁寧に大切に取り納めるようにとお達しがありました。

 当領内でも、3月、4月ごろから、書物をよく読む人が1村に2人3人と神葬祭を願い出て、すぐ聞き届けられ、太政官へ奏上されています。

 寺との縁を切れば、一切坊主を頼まなくてもよく、はなはだよろしいことです。

 無学文盲の者は、仏道を潰し、神葬祭になり、坊主に取りおきをしてもらわなければ、行きどころへ行かれないとか、仏道を廃止すれば世界が闇になるとか、人の気が強くなって世が治まらぬとか、なんのかんのと知りもせぬ語り話をして、お上(かみ)の御政治をそしる者があります。全く国家の罪人だと、私は思います。

 とかく仏というものは外国から渡ってきたもので、もともとわが国にあったものではありません。実に不要の道具同然です。

 だから、人々は早くこのことに気づき、神葬祭を願うことは当を得ています。

 私も急いでお願いしようと思い、家の者に相談しました。しかし、家内の者はその気になってくれません。みんなが神葬祭を願い出た時に、いっしょに願い出ればよく、先走ることは見合わせた方がいいと言います。父母もよろしいとは言われません。仕方がないので、押して願うことはせず、時節の来るのを待つことにしました。

 父母が、みんなが願うまで待てと言われるのには訳があります。

 早く神葬祭を願い出た者が、道でつまづいて足の指をけがしても、人はよく言わぬもので、「あの人は神道(しんとう)じゃ」とか「仏をそそうにした罰が当たったのじゃ」とか言います。仏の罰などありもしないことを言って、人の心を惑わすのです。

 父母は、そういうことをいやらしく思い、急ぐなと言われるのでしょう。

 文盲(もんもう)で道理のないことを言う者に対しては、争わないで相手にしないことがよろしい。

 中には、不法なことを言って世の成り行きをそしる人があります。こういう人には説得したいのですが、そんなことをすれば恨まれるだけですので、そのままにし、誠のことを聞きたい人にだけ説き聞かせることがよいようです。

 何事によらず、不法の者は数にしないで、正しい者を友にし、相携えて真の道を渡れば過ちはないと思います。

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