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東白川村の「廃仏毀釈」

五、廃寺廃仏の断行

廃仏毀釈と民衆の動き
 明治新政府による「神仏分離令」は、必ずしも廃仏を意図したものではありませんでした。神武創業の昔に復古する日本の姿を土台に、神仏混淆を禁じて、神道への切り替えを促進し、それによって旧習を打破し、天皇制支配に奉仕する政治体制をより強固にしようとするものでした。

 しかし、為政者の大半が平田学派で占められている苗木藩の場合は、これが神葬改宗となり、さらには仏教排斥にまで進行し、その結果、大切な伝統的文化遺産である寺院、仏像、経典、塔碑の類を多く失うことになってしまったのです。

 当時、藩庁から出されたさまざまな布達には、「今般朝廷より仰出され候……」とか「朝廷へ伺済み……」とかを冒頭にうたったものが多くありました。領民には、これらの命令があたかも朝廷から発せられた絶対的なものであるかのような印象を与えました。しかも明治3年は

・平民に苗字(みょうじ)を差許す(9月)
・平民惣髪束髪(そうはつそくはつ)勝手次第(10月)
・四民平等(11月)

など、維新の改革が広く及んだ年でもあり、廃仏政策もまたこの革新の一つであるように受けとめられたのでしょう。領民たちは仏罰におののきながらも藩の命令に従いました。

 ところで、廃仏当時の状況を伺う史料は意外に少なく、藩から出された命令や布達などの公式文書は保存されていますが、村人がどのように動いたかを伝えるものは、あまり見当たりません。

 しかし、わずかに残る史料の中の「明治3年見聞録」で村雲蔵多は、この地域は代々禅宗で、あまり仏道に頼らず、神を信心してきたから、仏を廃されても人々はやかましくなかったと述べており、付知宗敦寺沙門坂上宗詮(つけちそうとんじしゃもんさかがみそうせん)は「自叙伝」の中で、苗木領民の多くが臨済宗(りんざいしゅう)門徒であったから、暴動も起こらず平易に廃仏毀釈が実施できたが、もし一向宗(いっこうしゅう)の門徒が大半を占めていたら、あるいは暴動を起こし、苗木藩を倒すような挙に出たに違いないと語っています。

 いずれにしても苗木藩では、廃仏毀釈という強行手段によって、仏教の全廃を期しましたが、坂上宗詮が「彼等は苗木一万石の廃寺を見て、日本全国悉く廃寺せりと思惟(しい)したるものの如(ごと)し」と指摘しているように、廃仏毀釈は全国にわたるものではなく、苗木藩のほか、信州松本、土佐(とさ)、薩摩(さつま)、伊勢山田などの各藩が一部行った程度でした。小藩ながら苗木藩ほど徹底したところは全国に類がなく、わが国仏教史上特筆すべき事件でした。

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