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東白川村の「廃仏毀釈」

七、嵐のあと

 苗木藩が廃仏毀釈という強行手段を断行するより前、すでに明治新政府は祭政一致を目指して、神仏を分離し、僧侶が神社の別当となることを禁ずる一方、敬神の意識高揚に努めていたことは、前述しました。

 新政府の方針を体した苗木藩では、いち早く、苗木城の守護神であった竜王権現を高森神社と改称することとし、「今般朝廷より仰せ出され候御趣意を以て竜王権現の御神号を、以来高森神社と御改唱仰せ出され候事」と布達しました。そして、領内各神社の神仏混淆を禁止し、社僧、別当職の還俗を命じました。更に翌明治2年12月にいたり、これらの人たちに、専ら神祇に奉仕する神職・社人としての身分を新たに与え、その序列を定めました。
村々の神職は社人とし、藩命のものは神職と心得(う)べき事
神職の者共、神用の節は里正(りせい)の上、庁用の節は次たるべし
 右の通り相心得らるべき事
 明治二年十二月 苗木藩庁
神職序次 安江正朝 柘植土雄 後藤清道 奥田正神
村雲泰定 坂岡重広 小栗氏重 鷲見信秀
宮原栄造
社人序次 各務広忠 林 義一 安江正起 阿部良晁
加藤直道 安江能安 林 繁高 藤沢光順
安江正高 大沢道賢
 これらの神職・社人は、かつては「行者さま」として庶民に親しまれた修験道から転向したものが多く、その中には、柏本村元安正院の安江民部正朝、神土村永正院こと村雲宮内泰定、越原村安江隼人正起らの名が連ねられています。

 このころの苗木藩では、平田派国学の影響が著しく、神祇崇敬の風潮がとみに高まっていました。

 その上、神土村の産土神社が延喜(えんぎ)式内の「神田神社」であるとの御沙汰があって村びとたちの神祇を敬う心も深く厚くなっていました。

 こういう中での廃寺廃仏の断行でした。村びとたちは、仏罰を恐れながらも、一方では神祇崇敬の念もあって、冷静に藩の命令に従ったものと思われます。

 明治3年9月29日、廃仏毀釈後初めての神田神社の祭典は盛大でした。藩知事遠山友禄が大参事石原定安、権大参事棚橋朝成、少参事水野忠鼎らと共に参拝し、毎年米7斗を祭祀料として永代寄進することを約束しました。

 これらの詳細は別項に掲げた村雲蔵多の『明治三年見聞録』で知ることができます。

 明治4年5月、新政府は、神社はすべて国家が尊ぶものであることを達し、神社を公的な存在に位置づけ、官国弊社、府県社、郷社などの社格を定めました。このとき苗木藩は管内を次の6区に分け、各区に郷社を1社ずつ定めるとともに、その年9月には、従来の神職・社人を廃して、祠官・祠掌を任命し、祭事に当たらせました。なお、10月には村社の決定がありました。
第1区 瀬戸村、上地村、町、日比野村、高山村=県社兼郷社神明宮(日比野村)-祠掌小栗氏重
第2区 蛭川村、黒川村、毛呂窪村=郷社佐久良田神社(黒川村)-祠掌阿部郁蔵
第3区 姫栗村、河合村、飯地村、峯村、下立村、塩見村、福地村=郷社中森神社(福地村)-祠掌柘植郡兵衛
第4区 中ノ方村、切井村、赤河村、犬地村、上田村、名倉村=郷社笠置神社(中ノ方村)-祠官心得柘植寿麿
第5区 田島村、宇津尾村、広野村、若松村、油井村、徳田村、成山村、室原村、久田島村、吉田村、寺前村、大野村、小野村、有本村、越原村、神土村、柏本村、下野村、久須見村、宮代村、大沢村、中屋村、須崎村=郷社神田神社(神土村)-祠掌俵実
第6区 田瀬村、上野村、坂下村、福岡村、下野村=郷社榊山神社(福岡村)-祠掌伊藤祐直
 また新政府は、この年の6月には、村々にある神社をそれぞれ一つに合祀して、神事の統一を図ろうとし、格別に由緒のない神社は産土神社に合併することを命じました。そして、産土神社の祭りについても「始め春秋祭祀いたすべき旨申し達し置き候処、今般詮議の上、更に一歳一度は村中寄り集まり大祭致し候様相改め候事」とし、一年に一度は大祭を行うように命じました。

 さらにこの年の12月には、苗木県(7月に藩を県に改称)管下の各区とも郷社一社とその祠官および各区内の郷社、村社を一括しての祠掌が任命され、郷社、村社の祭祀が一様に行われるようになりました。
第1区 神明宮祠官=安江静(平田門人)
祠掌=神田巖(苗木藩士)
第2区 佐久良田神社祠官=土岐正雄(苗木藩士)
祠掌=奥田正道(平田門人)
第3区 中森神社祠官=俵実(苗木藩士)
祠掌=柘植長雄(平田門人)
第4区 笠置神社祠官=柘植顕義(平田門人)
祠掌=吉田澄暢
第5区 神田神社祠官=阿部敬儀(苗木藩士)
祠掌=加藤清敬(苗木藩士)
第6区 榊山神社祠官=土岐正徳(苗木藩士)
祠掌=小栗民重(苗木藩士)

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