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東白川村の「廃仏毀釈」

五、廃寺廃仏の断行

 神仏分離から神葬改宗へと進んだ苗木藩の青山藩政は、それだけに止まらず、徹底した仏教廃絶運動に移行していきました。
村々の内、辻堂を毀(こわ)ち、仏名経典等彫付候石碑類は掘埋め申すべく候。
但し、由緒これある向きは伺い出ずべき事。
諸社の内、未だ神仏混淆の向きもこれあるやに相聞え候。早々相改むべく申し候。
右の条々相達し候もの也。
午(うま)八月十五日  郡市局
御支配村々里正中
 これは廃仏毀釈に関する最初の布達とされています。特別に由緒のあるものは残して、その他の辻堂は壊し、仏名や経典などを彫り付けた石碑類は土中に埋めるように命じたもので、そのやり方は当初から徹底していました。

 さらに明治3年8月27日には、期限付で神葬への改宗を迫る一方、
諸社の内、未だ神仏混淆の場所もこれある哉に相聞こえ、左候ては、兼ねて相達し置き候御主意にもとり候間、早々改正致すべき事。
堂塔並びに石仏木像等取り払い、焼き捨てあるいは掘り埋め申すべき事。
 なお、このときの添え書きに「黒川村の儀は残らず神葬願済みに候得共、念のため申達し候事」とありますが、これを見ると、黒川村はこの時すでに全村の神葬への改宗を終わっていたことが伺えます。
 苗木藩が管下の寺に対して、表向き正式に廃寺帰俗を要求したのは、同年9月3日のことでした。管下寺院の住職全員を藩庁へ呼び出し、大参事青山直道(あおやまなおみち)が、「今般王政復古につき、領内の寺院はすべて廃寺を申しつける。よって、この命に従って速やかに還俗する者には、従来の寺有財産を与え、苗字帯刀(みょうじたいとう)を許し、村内においては里正の上席とする」と申し渡しました。

 住職たちは早速、遠山家の菩提寺である雲林寺に集まって対策を協議しましたが、どの村もすべて神葬改宗となり、檀家をことごとく失った今となっては、どうすることもできず、ついに廃寺帰俗することに決しました。

 ただ一人、雲林寺の17世住職浅野剛宗だけは頑としてこれを聞き入れませんでした。青山大参事が再三にわたって使者をおくり「五人扶持を与え、藩校の教師に任用するから速やかに還俗せよ」と勧めても、「領主の多年の恩顧に報い、歴代藩主の菩提を弔う」ためといって、領外の下野(しもの)村(現在の恵那郡福岡町)法界(ほうかい)寺への退去を願い続けました。藩はついに彼の懇請を受け入れ、雲林寺の仏具、什器類と金三百両を与えて退去を認めました。剛宗は、遠山家累代の位牌や雲林寺歴代住職の位牌をも貰い受け、雲林寺の末寺法界寺へ去って行きました。

 同年9月27日、苗木藩庁は、支配地一同が神葬改宗したので、管内の15か寺の廃寺と、その寺僧たちに還俗を申し付けたことを、弁官(中央役人)に届け出ました。
苗木村 雲林寺 同 所 仏好寺
黒川村 正法寺 坂下村 長昌寺
福岡村 片岡寺 姫栗村 長増寺
蛭川村 宝林寺 神土村 常楽寺
飯地村 洞泉寺 赤河村 昌寿寺
高山村 岩松寺 河合村 竜現寺
犬地村 積善寺 中野方村 心観寺
切井村 龍気寺 通計 十五箇寺
右今般知事始め支配地一同神葬罷り成り候に付き、廃寺帰俗を申し付け、活計相営み申すべく候。この段御届け申し上げ候。以上
庚午(かのえうま)九月二十七日 苗木藩
弁官御中
 この届け書を見ると、廃寺の災厄を被ったのは15か寺となっていますが、実際にはこの外にもありました。例えば、苗木の雲林寺の塔頭(たっちゅう)正岳院や大沢(おおさわ)村の蟠龍寺(ばんりゅうじ)も、このとき廃寺になっています。正岳院は雲林寺の一坊ですから弁官への届出から除外され、蟠龍寺はそのころすでに住職全理が退去した後で、寺は事実上廃寺の状態にあったので届書には記載されなかったのです。

 恵那郡下野村の法界寺や佐見村吉田の大蔵寺(だいぞうじ)も雲林寺の末寺でしたが、この村々には幕府の直轄領があり、笠松郡代(かさまつぐんだい)の支配下にあったので、廃寺の災厄を免れました。

 藩は廃寺を命じた住職に「速やかに帰俗する者には、従来の寺有財産を与えて生活を保障する」と申し渡す一方、9月3日、村方に対して「雲林寺始め村々寺院、更に廃仏帰農仰せ付けられ候に付き、寺院、田畑、山林等委細取り調べ届け出ずべし。その外、宝物、家財の儀は、本人、役人、檀家共相談の上、宜敷(よろし)きに取り計らい申すべく候事」と布達しました。

 神土村の常楽寺では、寺が所有していた田畑は檀徒の協議によって、元の住職自董こと安江良左衛門(りょうざえもん)の所有に移されました。

 このほか村内には、阿弥陀堂、観音堂、地蔵堂、薬師堂などが数多くありましたが、その多くは壊され、仏像や仏具は焼かれたり、土中に埋められたり、あるいは他領へ売り払われたりしました。

 路傍に建てられた石仏、名号塔、供養塔なども、その主なものは打ち割られたり、引き倒されたりしました。神土村の常楽寺の山門に建てられていた名号塔が四つに割られて、池の端や畑の片隅に伏せ込まれたのもこのときのことです。

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