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東白川村の「廃仏毀釈」

五、廃寺廃仏の断行

茶菴堂の廃止
(村雲蔵多『明治三年見聞録』から-大要-)

 当村は昔から、少なくとも1組に1か所は観音、地蔵、弘法などを迎え、堂を造り、納めてきましたが、今、君から早々取り払えと申されましたので、27日ごろ(明治3年8月)から、みんなで取り除きにかかりました。

 神付(じんづき)組でも茶菴堂(ちゃやんどう)に納めてあった地蔵はじめ、三十三番の観音、薬師、弘法大師の像などを取り除きました。しかし、だれもそれを預かるという人がありません。仕方がないので3体ずつ割あって組中みんなで預かることにしました。

 この茶菴堂は古い堂で、その名は遠くへも聞こえていました。ここへ迎えたのは元来お地蔵さまです。しかし、中古に至って西国(さいごく)三十三所の観音の姿を迎え納めたといいます。

 実に仏というものは、釋迦をはじめその弟子たちの作り出したことで、地蔵も観音もありし人ではありません。すべて彼等が悟ったものであります。ですから、日本には不要の品で、無くてもことかかず、あっても益のないものですから、このように廃されるわけです。

 また、28日には、茶菴堂の西の方に建ててあった六地蔵、十三仏、南無阿弥陀仏などの石仏を残らず倒し、薦(こも)に包んで置きました。

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