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東白川村の「廃仏毀釈」

十二、ゆかりの仏像仏具

茶菴堂
 茶菴堂の建立の時期は詳らかではありませんが、村雲蔵多の「明治三年見聞録」には、再建から数次にわたる修復の記録があります。
  • 貞享(じょうきょう)二乙丑年(1685)七月吉日再建……(このときの世話人は、清兵衛と茂兵衛でした。)
  • 寳永(ほうえい)元甲申年(1704)霜月吉日……(このときの世話人などは分かっていません。)
  • 正徳(しょうとく)四甲午年(1714)暮秋吉祥日……(このときの大工は蜂屋に住む藤原朝臣、春見喜七高重、春見喜兵衛高光とあります。)
  • 享保十九甲寅年(1734)三月十二日……(このときの大工は宮代(みやしろ)村藤原朝臣、熊崎半兵衛正勝とあります。)
  • 延享(えんきょう)元甲子年(1744)霜月廿五日……(このときの世話人は榊間惣吉です。)
  • 寛延(かんえん)元戌辰年(1748)仲冬廿四日……(このときの大工は神土村早瀬善四郎景由、同兵次郎、手伝いは小池作次郎、新田金次郎です。)
この年、庄屋安江八十助、組頭榊間惣吉、願主桂川吉兵衛らの手によって西国三十三所の観世音菩薩を迎え安置されました。
  • 文政(ぶんせい)十二己丑年(1829)三月吉日……(このときの大工は、神土村今井龜平従延(かめへいつぐのぶ)、安江弥蔵正明、安江増平兼車、従延の弟子桂川宇之介、榊間弁蔵義高で、柾木挽は安江栄蔵、組頭は今井栄八、五人組桂川伝八、世話人は桂川丈介でした。)
 茶菴堂の所在した場所は、村雲蔵多の日記や安政5年(1822)の古地図、嘉永7年(1854)の神土村絵図(神戸正弥氏蔵)などによって、旧神付クラブの跡地よりやや東付近と推定されます。しかし、その規模などについては確たる資料が見つかっていません。

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