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東白川村の「廃仏毀釈」

六、四つ割の南無阿弥陀仏碑

安らぎのシンボル
 東白川村の仏教や廃仏毀釈、常楽寺などを語るとき「四つ割の南無阿弥陀仏碑」を抜きにして考えることはできません。

 この塔は、昭和51年に東白川村の史跡第1号として指定され、役場前に保存されています。東白川村における廃仏毀釈がいかに厳しく徹底的に行われたかを、最も明確に語ってくれる唯(ただ)一つの証拠物で、寺のない村の象徴です。

 この塔は、天保6年(1835)7月、神戸弥助政辰(やすけまさとき)、伊藤爲平盛豊(ためへいもりとよ)、服田喜三太正命(きさんたまさな)、の3人が施主となって、常楽寺の山門わきに建立しました。

 塔の材質は俗にいう青石(濃飛流紋岩類(のうひりゅうもんがんるい))です。神土長瀞(ながとろ)付近の白川で採取したものだと伝えられていますが、実際にはもう少し下流の釜淵の堰の上にあったもののようで、神戸正弥氏所蔵の文書には次のように書かれています。
天保七丙申年(一八三六)二月出来
南無阿弥陀佛
金三両壱分弐朱弐匁五分
酒屋四人肴代
金四両三分三匁
石屋伝蔵上日百六人ちん銀
金壱分壱朱 苗木雲林寺様御礼ニ遣候
金壱分 常楽寺御礼
金壱分 常楽寺へ地料上ル
弐匁五分 同寺風呂有御礼
三朱ト三匁□分
石屋爲蔵三人等ちん銀共
〆金九両壱分三匁三分五厘入用

大仏(名号塔のこと)の石は釜淵前堰の上の川にこれあり候 親田日雇神戸材木川狩の節代人忠左衛門と申す者棟梁にて引き申し候 材木十五六本敷材といたし候 新巣より仕出候 角なり 下屋定右衛門出火にて家を普請いたし候時右材木へいたし申し候
 当時、このような大きな石を川から引き上げて運ぶということは大変なことで、村びとの常楽寺に寄せる思いを偲(しの)ぶことができます。

 深い刻みの六字の名号は、苗木(なえぎ)藩主の菩提寺である雲林寺(廃仏毀釈により廃寺となりました)の住職逐安が雄渾な筆勢を振るったもので、信州高遠(たかとお)の石工伊藤傳蔵が精魂込めて刻みました。

 それから35年、この塔は常楽寺のたたずまいとともに檀徒の心の安らぎのシンボルとなってきました。

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