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東白川村の「廃仏毀釈」

四、神仏分離と神葬改宗

神仏判然令の発布
 祭政一致の政治を標榜(ひょうぼう)する新政府がめざしたのは、仏教と神道との習合(しゅうごう)を分離させ、神道を国教の地位に据えることでした。新政府は神祇官を再興するとともに、慶応4年3月13日、次のような布告を発しました。
このたび王政復古、神武創業の始めに基づかれ、諸事御一新、祭政一致の御制度に御回復遊ばされ候に付いては、先ず第一に神祇官御再興御造立の上、追々諸祭典も興されるべく仰せ出され候。よってこの旨五畿(き)七道諸国に布告し、往古に立帰り、諸家執奏(しょかしっそう)配下の儀は止められ、あまねく天下の諸神社神主(かんぬし)禰宜(ねぎ)祝神部(はふりべ)に至るまで、向後右神祇官附属に仰せ渡され候間、官位を初め諸事萬端同官へ願出候様相心得べく候事。ただし、なお追々諸社御取調べ、並びに諸祭典の儀も仰せ出さるべく候得共、差し向き急務の儀これあり候者は訴え出るべく候事。
 「あまねく天下の諸神社神主禰宜祝神部に至るまで、向後右神祇官附属に仰せ渡され候間」云々とは、すなわち、神道が仏教の支配下から分離して、神祇官に専属するという方針を明確にしたものであり、神仏の分離であるとともに神道を重視するという意向でもありました。

 次いで、同月17日には、
今般王政復古、旧弊(きゅうへい)御一洗なされ候に付き、諸国大小の神社において、僧形にて別当あるいは社僧等と相唱(あいとな)え候輩は、復飾(ふくしょく)仰せ出され候。もし復飾の儀余儀なく差し支えこれある分は、申し出ずべく候。よって、この段相心得べく候事。ただし、別当社僧の輩復飾の上は、これまでの僧位僧官(そういそうかん)返上は勿論に候。官位の儀は追って御沙汰あらるべく候間、当今のところ、衣服は浄衣(じょうえ)にて勤め仕るべく候事。右の通り相心得、復飾致し候面々は、当局へ届出申すべき者也。
という神祇局からの社僧禁止の布令を全国の神社へ達し、各神社の別当あるいは社僧を還俗させたのでした。

 このようにして、同月28日には、いわゆる「神仏判然の御沙汰」と称する次のような布告が神祇局から発せられました。
中古以来、某権現あるいは牛頭天王(ごずてんのう)の類、その外仏語をもって神号に相称え候神社少なからず候。いずれもその神社の由緒を委細に書き付け、早々申し出ずべく候事。ただし、勅祭(ちょくさい)の神社、御宸翰(しんかん)、勅額(ちょくがく)等これあり候向きは、これまた伺い出ずべく、その上にて御沙汰これあるべく候。その余の社は、裁判、鎮台(ちんだい)、領主、支配頭等へ申し出ずべく候事。
仏像をもって神体と致し候神社は、以来相改め申すべく候事。附、本地(ほんじ)等と唱え、仏像を社前に掛け、あるいは鰐口(わにぐち)、梵鐘(ぼんしょう)、仏具(ぶつぐ)等の類差し置き候分は、早々取り除き申すべき事。右の通り仰せ出され候事。
 それまでの神社では、実権は別当や社僧の掌中に収められており、神官は単に神事を行うに過ぎませんでした。したがって、祭政が一致し神社から仏教が排除されるとなると、神官たちの積年の欝憤(うっぷん)が爆発し、神社の仏像仏具を必要以上に破壊し、焼却することも少なくありませんでした。政府は、これらの行き過ぎを戒めるため、同年4月10日、次のような布告を発しました。
諸国の大小の神社の中、仏像をもって神体と致し、または本地等と唱え、仏像を社前に掛け、あるいは鰐口、梵鐘、仏具等差し置き候分は、早々取り除き相改め申すべき旨、過日仰せ出され候。しかるところ、旧来社人僧侶相善からず、氷炭(ひょうたん)の如く候に付き、今日に至り社人共俄に威権を得、陽に御趣意と称し、実は私憤を霽(はら)し候様の所業出来候ては、御政道の妨げを生じ候のみならず、紛擾(ふんじょう)を引き起こし申すべきは必然に候。左様相なり候ては、実に相済まざる儀に付き、厚く顧慮して緩急の宜しきを考え、穏やかに取り扱うべきは勿論、僧侶共に至り候ても、生業の道を失わず、ますます国家の御用に相立ち候様、精々心掛くるべく候。また、神社中にこれあり候仏像仏具等取り除き候処分たりとも、いちいち取り計らいの向き伺い出、御指図受けるべく候。もし以来心得違い致し、粗暴の振舞い等これあるにおいては、きっと曲事仰せ付けらるべく候事。ただし、勅祭の神社、御宸翰、勅額等これある向きは、伺い出候上、御沙汰これあるべく、その余の社は裁判所、鎮台、領主、地頭(じとう)等へ委細申し出ずべき事。
 このように新政府は、神仏を区別することにとどまり、進んで仏教を排斥することを好んでいるわけではありませんでした。その目的とするところは、仏教から分離した神道を重んずることにあったのです。

 さらに閏(うるう)4月4日には太政官(だじょうかん)から
今般諸国大小の神社において、神仏混淆(こんこう)の儀は御廃止に相なり候に付き、別当社僧の輩は、還俗の上、神主社人等の称号に相転じ、神道をもって勤仕致すべく候。若しまた、よんどころなき差し支えこれあり、または仏教信仰にて還俗の儀不得心の輩は、神勤相止め、立ち退き申すべく候事。ただし、還俗の者は、僧位僧官返上は勿論に候。官位の儀は追って御沙汰これあるべく候間、当今のところ、衣服は風折烏帽子(かざおりえぼし)、浄衣(じょうえ)、白差貫(しろさしぬき)着用し勤仕致すべく候事。これまで神職相勤め候者と、席順の儀は、それぞれ伺い出申すべく候。その上お取り調べにて、御沙汰これあるべく候事。
という布達が出されました。還俗して神官になった者は、一応は無位の取り扱いを受けますが、それまでの関係を調べた上で、追って相当の待遇を与えることが約束されました。

 そして、同月19日には「還俗した者は、従来通りの神勤順序でよろしい」という布令が出されて、社僧の時代に与えられていた待遇をそのまま許されることとなったのです。

 こうして神仏判然令は着々として推進されていきましたが、年久しく根づいてきた神仏混淆から、直ちに神仏判然を実行するに当たっては、多くの勇気を要したし、無理なことも行われ、決して順風、無風の状態ではありませんでした。

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