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東白川村の「廃仏毀釈」

三、廃仏毀釈の背景

俗にいう苗木騒動
 明治2年11月2日の苗木藩の職制改革は、旧幕時代の支配体制を大きく変え、人材抜擢によって藩政担当者にも大幅な交代をもたらしました。慶応2年(1866)の段階で21人を数えた給人は、職制改革後は僅かに4人の登用となり、旧中小姓格が大部分を占めることとなったのです。したがって、当然のことながら、かつての重臣たちは後退を余儀なくされました。この職制改革に先立って知事は、9日、「等級の儀、それぞれ相定め候上は、おのおの分限を守り、長上に対し侮慢(ぶまん)の振る舞いこれあるべからず候」ことを達し、従来の下級士族層を登用することによる家臣の感情をたしなめ、さらに「盛衰は天地の常理に候間、士たるもの一浮一沈は常である。然るに己から用いられざるを憤り、私党を企て、あるいは忠義をもって口実となし、長官を凌礫(りょうれき)し、陰で誹謗(ひぼう)流言等相唱え候輩(やから)これあり候ては、全く嫉妬偏執(しっとへんしつ)の痴情(ちじょう)より出る、藩士の本意に非ず」と示達して、人材登用によって起こるであろう家臣内部の対立を予測し、それを戒めたのでした。

 しかし、のち、世にいう苗木騒動が起こるのです。

 事件の遠因は、明治元年、青山直道が藩政に徐々に影響力を発揮し始めたころに遡ります。千葉権右衛門(ちばごんえもん)という家老が永蟄居(えいちっきょ)の処分を受けました。「覚秘録」には次のように書かれています。
千葉権右衛門へ
ソノ方儀、柱石(チュウセキ)ノ大任ニ罷リアリナガラ、(エコヘンシツ)ノ所業少ナカラズ、アマツサエ坂地(ハンチ)(大阪ノ地)ノ行跡ナド悉ク人心ノ不和ヲ醸(カモ)シ、怨口紛々(エンコウフンプン)遂ニ御政体モ相立タザル場合ニ至リ、コノママ捨テ置カレ候ハバ、如何ナル変動ヲ生ジ申スベクモ測リ難ク、罪籍分明不埒ノコトニ候。ヨッテ屹度(キット)御糺(オタダシ)ノ上、厳科(ゲンカ)仰セ付ケラレルベキ処、寛大ノ御仁慈ヲモッテ御役儀御取リ上ゲ、永蟄居仰セ付ケラレ、自今近親トイエドモ対面ヲ禁ジラレ候。家督ノ儀ハ同姓宮之進(ミヤノシン)ヘ七〇石下サレルモノ也。
辰(タツ)(慶応四年)七月
 家老職であった千葉権右衛門が、どのような理由で処分を受けたかは明白でありませんが、維新当時、藩論が朝廷帰順にあったのに対し、反朝廷、反政府的な行動に対する処分であったと見て差し支えないようです。それと同時に、下級出身の青山直道の台頭を、彼がこころよく思っていなかったことに対する措置であったことも事実でした。

 なお、このとき、佐藤和左衛門、和田左五郎、山田新左衛門、中嶋弓三、東侑之進(権右衛門の弟)、伊藤杢允、神山健之進らが前後して処分を受けました。

 かくて大参事に任用された青山直道は、着々と藩政を青山色に塗り変えていくわけですが、一方、職制改革によって大きく後退することを余儀なくされた元給人層は、反青山勢力として燻(くすぶ)り続けました。青山藩政を確固たるものにするには、これらの軋轢(あつれき)を解決しなければなりません。

 そこで行われたのが、明治3年春の一斉弾圧でした。

 藩知事の日記によれば
藩知事の日記
今日用の儀これあるに付き、士族初歩卒に至るまで正五時(いつつどき)(午前8時)惣(そう)出仕のこと。
幼少の面々、名代のこと。
 書院へ士族一同相揃え、・・・・・・・・・自分ほか大小参事罷り出、青山直道より、監察、小監察共一同進み出候様申達候に付き、四人共脱劔(だっけん)にて敷居(しきい)内へ進み出る。そこにて中原央(なかはらなか)を呼び出し候処、二の間敷居を越え、脱劔罷りいで候に付き、直道より、御疑惑の筋これあるに付き、糾弾仰せ付けられ、監察共糾弾致し候様申達候て、直ちに監察局へ引き連れ罷り越し、手鎖腰縄に致し置き、・・・・・・・・・千葉武男前同断。また千葉鐐(りょう)五郎同断、これで相済み。直道より一同へ申達候は、右三人の者ども御疑惑の筋これあり、よって監察糾弾致し候に付き、・・・・・・・・・退席致すまじき旨申達候。
千葉権右衛門疑いの筋これあるに付き、召し捕りのため・・・・・・・・・書類そのほか探索のため紀野亀五郎、小林安五郎を差し遣わし・・・・・・・・・早速召し捕り罷り帰り候こと・・・・・・・・・(以下略)……
と明治3年1月12日のところに書かれています。
 全員を集めた上で、疑いのある者を召し捕り、あるいは家宅捜索を進めたのです。したがって、事前にこのことを承知していたのは藩知事と青山大参事のみであったと推察できます。

 このとき召し捕られ、家宅捜索を受けたのは、前掲の藩知事の「日記」に書かれた中原央、千葉権右衛門、千葉武男、千葉鐐五郎、八尾伊織、神山健之進ほか4人の計10人で、8人は入牢、2人は親類預けの仮処分を受けました。そうして、さらに罪状の調査が進められました。なかでも中心人物と目された千葉権右衛門、千葉侑太郎、中原央、神山健之進は同年1月25日、田畑や家財を没収され、家族は親類へ預けて謹慎させられるなど、取り調べは厳重なものでした。

 こうして、同年8月8日、最終的に処断が行われました。内容は、終身流罪(るざい)4人(このうちの1人は処分前に死亡)、5年流罪2人、3年徒刑1人、3年徒罪3人、2年徒刑1人、隠居申付2人、親類預1人、永蟄居2人、謹慎2人、家族謹慎6人というもので、総計18人にのぼりました。流罪者5人は刑部省(ぎょうぶしょう)送りとなって、この一件は落着しました。

 ところで、この一件の首謀者とみなされた千葉権右衛門に対する裁許状には
権右衛門へ
ソノ方儀、勤役中奸曲(カンキョク)ノ所業尠(スク)ナカラズ、一藩動揺ヲ生ジ候ニ付キ、去々辰年(慶応四年)秋七月永蟄居申シ付ケ、近親タリト雖モ対面相禁ジオキ候処、窃(ヒソカ)ニ徒党ヲ結ビ、自ラ巨魁トナリ、流言虚説(キョセツ)ヲ唱エ、奸謀(カンボウ)ヲモッテ衆人ヲ煽動(センドウ)致シ、剰(アマツサ)エシバシバ朝廷官人ヲ呪咀調伏(ジュソチョウブク)ニ及ビ、加エテ央(ナカ)ガ悪計ニ与(クミ)シ、去巳(ミ)ノ年(明治二年)六月、今井七郎左衛門ガ東京ニ於イテ横死ノ儀ハ、青山大参事ノ所為ナル由誣告(ブコク)致シ、藩政ヲ顛覆(テンプク)為サント企テ候段、言語道断不届キ至極ノコトニ候。

右罪状ノ趣、刑部(ギョウブ)省ヘ窺イノ上、御指揮ニ仍ッテ終身流罪申シ付ケルモノ也。
とあります。さきの日記にある「御疑惑の筋」が具体的にどういうことなのか、これを見ても明らかにすることはできません。

 「シバシバ朝廷官人ヲ呪咀調伏ニ及ビ」と一方的に押しまくって罪状としています。また、「今井七郎左衛門ガ東京ニ於イテ横死」した事件は、青山大参事が行わせたものであると、千葉権右衛門が七郎左衛門の子の元七郎に偽(いつわ)って証言させたというものです。千葉派の反論もあったでしょうが、資料は残っていません。

 なお、「権右衛門始裁許一件」(覚秘録)=恵那市毛呂窪(けろくぼ)長谷川桂氏蔵=によると、今井元七郎(この時はすでに故人となっていました)の母に対しても次のように謹慎の申し渡しがされています。

ソノ方儀忰故元七郎、昨年東京ニ於イテ横死ノ節、央(ナカ)ガ悪計ニ欺(アザム)カレ、相手方青山大参事ナル由跡方(アトカタ)モコレナキ妄言(ボウゲン)申シ触レ候段……不埒ノコトニ候。ヨッテ叱リノ上、尚又謹慎申シ付ケ候モノ也。

 こうして一連の粛正を見ると、明らかに、青山直道の失脚を狙う反青山派への徹底的な弾圧であったことが分かります。

 反青山派に対するこのような処断は、直道にとっては強固な基盤を確立することを意味し、その後、廃仏毀釈に至るまで藩の施政を容易にするものとなりました。

 しかし、藩権力の解消と共に、直道に対する不平分子が結集し、青山邸への放火事件、直道刺傷(ししょう)事件が相次いで起こるのは、それからしばらく後のことです。

苗木城跡(中津川市)

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