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東白川村の「廃仏毀釈」

九、信州高遠の石工

高藤石工と傅蔵
 石工傅蔵は信州片倉村(現長野県高遠町片倉)に生まれました。

 石工としての伊藤家は初代八右衛門から傅蔵まで5代続きました。その系譜は次のようです。

 常楽寺の名号塔を刻んだ石工は5代目傅蔵で4代目傅蔵の弟です。墓塔には明治19年9月20日に亡くなったと刻まれています。35年前に自ら彫った名号塔を、廃仏毀釈の際、血涙を絞って4つに割った名工です。

 伊藤家の石工としての稼業は5代目傅蔵までで、後を継ぐ人がありませんでした。

 高遠の石工は、寛保2年(1742)ごろから天保年代に亘って、東白川村の各所で石垣積みをし、またはそれを指導したらしいと識者はいいます。例えば、五加大沢蟠龍寺跡の石垣やその付近の農地の石積み、或いは神土平の旧道のうち、高橋北詰めの川の土手積みなどは間違いなく高遠式の石積みだというわけです。

 他の地域に見る農地の石積みは、積み上げてから一定の草土手を造って畦(あぜ)にする方式がとられていますが、東白川村の場合は、作付け面積を少しでも広くするように工夫され、かなり高い石積みでも傾斜を付けないで、ほぼ垂直に積み上げ、草土手も設けていません。それでいて、100年も200年もびくともしないでいるのですから、今さらながらその技術の高さに驚きます。

高遠式と推測される蟠龍寺の石垣

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