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東白川村の「廃仏毀釈」

四、神仏分離と神葬改宗

苗木藩と神葬改宗
 苗木藩での神葬改宗は、慶応4年(1868)8月16日、青山景通(かげみち)(通称稲吉(いなきち))が、「私儀家内に至る迄、神葬祭仕り度、この段願い奉り候」と、自らの神葬改宗を弁事役所へ願い出たのが最初です。これは、同年4月、神祇局から出された「神職の者、家内に至る迄、以後神葬相改め申すべき事」という布達にしたがって、当時神祇官権(ごん)判事の職にあった景通個人の意思によって決めたものでした。

 このことは、景通が平田派国学の心酔者であることから、学問的に他へおよぼす影響が大きく、その門人たちの中に、仏葬を廃し、神葬を願い出る者が続出しました。

 そしてこの傾向は、次第に領内の村々に広まり、村役人たちの中にも、自発的に神葬改宗を願い出る者が多くなっていきました。

 苗木藩として本格的に神葬改宗をとり上げたのは、明治3年7月23日郡市局名をもって家臣一同へ「知事様近日御自葬御願相成候につき、士族ならびに卒族に至るまで自葬相願出候様仰出され候。この段心得のため申達するもの也」と示達し、自発的な改宗を予告したときからです。実際に知事遠山友禄(ともよし)が神葬改宗を弁事役所に願い出たのは、その数日後の27日のことでした。

 藩知事自らが平田派国学に入門し、また率先して神葬に改宗したことは、平田派国学を藩政の柱とする大参事青山直道(なおみち)一派に大きな自信を与える結果となりました。

 同年8月7日、苗木藩は、管内の士族、卒族その他一般のすべてが神葬に改宗する旨の伺い書を弁事役所に提出しました。これがその日のうちに聴きとどけられたことから、藩および領内の神葬改宗は、急速に進展することとなりました。

 東白川村では、7月ごろ、すでに神土村里正(りせい)安江新八郎およびその脇家(わきや)一同151人が自葬願を出したほか、越原村里正安江猶一郎、神土村神戸弥介(かんべやすけ)、越原村五斗俊介(ごとうしゅんすけ)ら主だった人々が相次いで神葬に改宗することを願い出ていました。これらは初め、自発的な願い出の形式がとられていましたが、同年8月27日に郡市局と神祇局から「今般知事殿始め士卒族に至る迄、神葬願済み相成り候間、御支配一同神葬相改め申すべき事。但し、9月10日限り届出申すべき事」という布達が出され、村継ぎをもって厳しく申し渡されるに及んで、その年9月1日までには、神土村、越原村、柏本(かしもと)5か村ともに村びと全員の神葬改宗願が出されました。

 急速な神葬改宗の強行であり、永い間の歴史と伝統を持つ宗教的習俗を一変する事態であるだけに、各地ではさまざまに混乱もありました。しかし、東白川村ではこれらの紛擾(ふんじょう)や混乱の事実は伝えられていません。

 ともあれ、領内全域にわたって神葬祭実施に至った苗木藩では、各村々に神葬祭世話役を置いて、その普及と指導に当たらせました。

 東白川村は、この時以来、仏式によって戒名(かいみょう)を記した位牌(いはい)や仏壇を廃して、霊棚(みたまだな)を設け実名を記した笏(しゃく)形の霊璽(れいじ)を祀り、墓碑、墓標も「何之誰之墓」と実際の氏名を記すようになりました。

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