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東白川村の「廃仏毀釈」

三、廃仏毀釈の背景

青山直道
 青山直道(あおやまなおみち)は弘化(こうか)3年(1846)、苗木藩士青山景通(かげみち)の長男として生まれ、佐次郎(さじろう)といいました。成長するにしたがって直道は、彼自身の力量と父景通の影響とによって、苗木藩主遠山氏に重く用いられ、後には苗木藩政を動かす人物となります。

 文久(ぶんきゅう)2年(1862)9月24日刀番(かたなばん)となった直道は、慶応4年(1868)4月23日、藩主友禄(ともよし)の出京に際して刀番として随行し、同年7月24日には目付役となりました。直道が藩政を論じはじめるのはこのころからで、藩政に建議をするなど積極的な動きをして藩内の地位をだんだん固めていきました。

 明治2年(1869)11月2日、藩の職制改革によって直道は、石原定安と共に大参事となりました。このことは、(1)藩の政治姿勢が平田派国学を柱とすること、(2)直道の父景通が神祇官権判事として明治新政府に登用されたことで、中央政府につながる人事が藩として好ましいこと、などが考えられたものと思われます。

 明治3年、藩主友禄が平田派国学に入門するに及んで、直道は、さらに積極的な藩政を展開しました。

 藩主友禄は直道に感状を与えて「勤王(キンノウ)ノ志(ココロザシ)業ヲ亮(タス)ケ、又克(ヨ)ク管内ヲ撫安(ブアン)ス」といい、その功績を高く評価しました。

 大参事となった直道は、王政復古の大業を進めるために藩政の改革を主張しました。しかし、藩主が直道の大義名分論にしたがって家禄奉還(かろくほうかん)の決意を固めたことから、こうなれば藩士は禄を失い生活が苦しくなるといって、多くの藩士から反対を受けました。直道こそわれわれの仇敵であると、焼き打ち騒動にまで発展したのです。直道は大いに怒り何人かを召し捕って、入牢や閉門にし、騒ぎは一段落しました。

 けれども、藩士のうらみは解決しそうになく、直道は藩政改革に急進的であっただけにこれらの藩士を恐れていました。

 やがて、藩全体が平田学を学び、廃仏毀釈を断行しました。

 のち直道は大参事を辞め、廃藩置県後は官吏となって、栃木、静岡両県に勤務し、次いで郡制が実施されると明治12年(1879)2月、岐阜県大野、池田郡(現揖斐郡)の初代郡長に任命されましたが、同14年(1881)1月退官しました。その後しばらく富山県の官吏となりましたが「眇(みょう)たる俗吏(ぞくり)に安着するを欲せず」といって、官吏を辞めました。

 退官後は東京に出て易(えき)学を学び、易によって一家の生計を立てていたといわれ、晩年は極めて不遇でした。

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