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東白川村の「廃仏毀釈」

十、村雲蔵多と蔵多日記

系譜
 村雲蔵多は慶応3年までは、「蔵太」と表記しています。その理由は分かりませんが、本書ではすべて「蔵多」としました。また、別名を桂川庄太郎といい、明治3年4月、柏本村社司安江平正朝(安江民部)から「正道」の名をもらい、桂川庄太郎平正道と名乗りました。そして、その年の10月、苗字(みょうじ)御免となったことから、姓を「村雲」とすることにしました。村雲庄太郎正道は同4年8月に若者頭に任命され活躍しました。

 村雲家の初代桂川弥与介は、蔵多日記によれば中通の鈴原から別れ出たとありますが、蔵多日記がしたためられたころには、すでに故人になっていますので、詳細は不明です。 その長男村雲禮介は、天明4年(1784)8月5日の生まれで、幼名を丈介といいました。この人の場合も蔵多日記のころは高齢で、特別の記述が見られません。父喜蔵は文政5年(1822)3月18日の生まれ、当時は働き盛りの年代でした。幼名を万之介または貝介といい、五人組頭の職にもあったようです。

こ のような家庭に生まれ育った村雲蔵多は近隣の人望も厚く、たび重なる苗木藩からの借金の要請にも応じ、時には全体のために減額の掛け合いをしたり、地域の人のために尽くす人でした。

蔵多日記(見聞録)

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